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竹あかりを作りました [日記・雑感]

向かいの花屋さんの外に、正月飾り用に仕入れて余った竹筒が数個置いてあったので、ダイエット中の自分が食べれない最中一箱と物々交換してもらいました。原始時代で例えると川魚と木の実を交換するような感じでしょうかw。
で、これで竹あかりを作りました。加工面が曲面なのと厚みがあるため、毎度のレーザー加工機は使えませんので全て人力での作業になります。


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JW-CADで図面を描きA4の紙に印刷します。



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印刷した紙を竹筒にテープで固定します。天然の竹ですから当然真円の筒ではないので、紙は真っすぐ貼れませんから紙に切れ込みを入れたりして強引に調整します。


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作業に夢中になり過ぎて加工中の写真を撮り忘れましたのでいきなり完成ですw。穴あけはホームセンターで税込900円くらいの竹用のドリルを使います。
これを作る前に実験君で一個作ったのですが、手持ちの木工用ドリルを使ってみたら竹の表面がバリバリに割れてしまって見るも無残な姿になりました(-_-;)。
ランプはLEDを使いましたが、電球色(25lm)では面白くないかと考え、赤色(2lm)も買ってみましたが赤は暗くてダメでした。


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こんな感じです。税込2800円、値下げ交渉ありで販売していますw。

京王電気軌道御陵線の廃線跡をたどる その1 [日記・雑感]

一昨年の初冬に某テレビ局の番組制作をしている会社の方(お名刺を頂戴しました)が当店に飛び込みでいらっしゃいました。もちろん当店に取材依頼なんかあるわけないのでご用件をお伺いしましたら、某有名番組で八王子の郷土史を取り上げたいので目的の情報がありそうなお店とかを資料探しで訪問しているのだとか。

個人的には子供のころから郷土史研究は好きでしたが、私自身が八王子出身でないと伝えたら詳しい取材対象を話し始めて、目的は廃線になった京王御陵線とのこと。平成28年9月に放送されたNHKの番組「ブラタモリ」で高尾周辺が取り上げられまして、このときにこの廃線跡が登場して一躍有名になったわけですが、今回は図書館や郷土資料館所蔵の本などで閲覧できる情報とかネット検索で出て来るような公開済の情報や資料ではなく、地元の人しか知らないような未公開の情報を探しているようでした。

御陵線については個人的に興味があったので平成28年11月16日に当ブログで記事を書きました。このときに参考にした資料を見せてあげたり、当店のお客様でその方のお父様が戦前から御陵線含め京王線の運転手をされていた方がおられますので、連絡したら電話取材に応じてくれるとのことなので紹介しました。で、結局このネタが採用されて放送されたかどうかはよくわからずじまいでした。



まあそんなこともきっかけで、以前から歩いてみたかった御陵線跡をたどり、まとめてみました。
今回はその1として武蔵横山駅~多摩御陵前駅(開業から昭和12年5月までは横山駅~御陵前駅)を取り上げてみたいと思います。

ここで簡単に御陵線についておさらいします。御陵線は昭和6年3月20日に京王電気軌道(現・京王電鉄)が開業させた北野駅ー御陵前駅の鉄道支線で、全線現在の東京都八王子市内にありました。
昭和20年1月21日に戦局の悪化により不要不急路線として運行休止し、再び電車が走ることなく昭和39年11月26日に免許失効により廃止となりました。

※画像は令和3年初夏頃の撮影なので、建物解体などで現在とは環境が変わっている場所もあります。
※画像上の半透明のピンクの塗りつぶしは御陵線の線路または鉄道用地だったと思われる場所です。



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番号はこの後の画像番号で矢印は撮影方向、ピンクの線は線路があったと思われる場所です。

地図出展:国土地理院・地図空中写真閲覧サービス地図検索表示画面を使用(書き込んだ数字や線を見やすくするために地図の一部を加工してあります)。


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画像①:スタートは武蔵横山駅付近です。画像正面が警視庁高尾警察署並木町交番の裏側になり、この交番の上空あたりに駅がありました。
昭和初期としては全国でも珍しい高架駅で、2面2線の交換設備を持つ構造でした。御陵線は全線単線でしたが、最初から全線複線分の鉄道用地を取得しており、八王子市教育委員会発行の「八王子と鉄道」に掲載されている京王電鉄所蔵の「中央線横断ヶ所付近用地求積図」を見ると下り線側に線路が敷かれていたようです。また、この駅近くに京王電気軌道の変電所もあったそうです。


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画像②:交番の前から南浅川方向の画像です。甲州街道を渡った先にはガソリンスタンドがありましたが、最近解体されて空き地になり京王の元鉄道用地が出現しました。
ここで写真を撮っていたら交番勤務の交番相談員の方に声をかけられまして(職質ではありません念のため)ブラタモリで放送されてから5年くらい経つけど、今でも廃線跡を訪問される方が多いのだとか・・。


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画像③:そのガソリンスタンド跡地。線路があった当時はここから南浅川手前まで築堤になっていて、武蔵横山駅を発車すると高架で甲州街道を跨ぎ、この築堤の上を走っていました。


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画像④:先へ進んで南浅川手前の築堤の端面付近です。矢印の場所に次の⑤があります。


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画像⑤:南浅川を跨ぐために造られた橋脚を解体した跡と、よくこの地を訪れた方のブログなどで書かれていますが、橋脚ではなく築堤端面の壁を壊した跡ではないかと思います。この壁に川を跨ぐための橋桁の端を載せていたのではないかと思います。


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参考画像:南浅川を跨ぐための橋脚は7基あったと聞いたことがあります。航空写真を見ると⑤の位置は甲州街道からの築堤の端面になり、川を跨いだ先の築堤の端面にも同じようなものが見えます。

※出典:国土地理院 地図空中写真閲覧サービス

整理番号94C7-C16-251 昭和19年12月21日 陸軍撮影 ※元画像の一部を拡大してあります。


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画像⑥:横山橋より高尾方向(上流方向)。ピンクに塗りつぶした場所を高架で南浅川を跨ぎます。


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画像⑦:南浅川を跨いだ所です。御陵線の遺構としてはいちばん有名な橋脚2基が奥に見えます。


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画像⑧:残存している橋脚2基を逆方向から見ます。昭和39年の航空写真を見ると、ここから始まり画像⑪の場所までの築堤がまだ残っていて、この画像の左下のブロック塀の角がこの築堤の端面の角に位置することがわかります。線路はこの付近から緩やかなカーブで南アパート4号棟の付近まで進みます。


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画像⑨:数年前まで営業していたスーパーさえきの駐車場入り口の前の道路を西に進んだあたりです。ピンクの部分辺りに築堤がありその上を電車が走っていました。さえきさん、他ではあまりみかけないお菓子が多くて楽しかったのに残念。


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画像⑩:画像右側のクリーニング屋さんの建物から奥に続く建物の並んでいる場所が鉄道用地でした。


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画像⑪:高台に上がって今来た跡地を振り返ります。宅地化のためか現在では急斜面になってブロック塀で固められていますが、鉄道があった頃はなだらかな土の斜面で、今までの築堤が少しづつなくなりこの高台へと線路が続いていました。戦時中はこの斜面に防空壕があったと、この近くに住むお客様が教えてくれました。ここでよく考えてみると武蔵横山駅から多摩御陵前駅まで、ほぼ高低差なく線路が敷かれていたのがわかります。鉄道用地の中心線はこの階段または少し左(東)寄りではないかと推測します。


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画像⑫:高台に載ったら画像右側の都営長房南アパート54号棟の敷地内(元保育所)に入ります。50~54号棟は既に解体が決まっており、もう人は住んでいません。※54号棟は撮影後の令和3年の夏頃から解体工事が始まり既に解体済です。


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画像⑬:54号棟の西側にある水色に塗装された門付近から同じく南アパート1~3号棟のある敷地へ入ります。


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ちょっと休憩して野良ちゃんと遊んでみます(*‘∀‘)。以前お客さんの飼い猫がこの辺りで脱走して探したのですが見つかりませんでした。元気にしているのならよいのですが・・。


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線路は現在の長房南アパートの敷地に入ります。この画像は南アパート入口にある案内板を利用し線路の位置(ピンクの線)と思われる場所を書いたものです。ここから多摩御陵前駅までは鉄道があった痕跡はほぼ何もありません。事前に下調べをしておかなければ現地へ行ってもどこに線路があったのかわからないと思います。
ここから多摩御陵前駅までの線路の位置の割り出し方法は、線路跡が確認できる昭和20~30年代撮影の国土地理院のホームページで閲覧できる航空写真と現在の地図を同じ縮尺になるよう印刷して重ねればほぼわかります。
現在ある周辺の道路は当時から同じ場所にあるようなので、わかりにくい場所は道路との位置関係を見ればほぼ割り出せます。


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画像⑭:南アパート2号棟前です。正面側付近に線路があったと思われます。


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画像⑮:南アパート3号棟前です。右側にあるのは船田古墳(跡)がある公園です。昭和43年に八王子船田遺跡調査会が発掘調査後に埋め戻したそうです。が、この公園にある説明板によると昭和46年に団地造成のための調査した時に発見された(要約)と書いてありますが、わずか数年前に他の団体が調査したのを知らなかったのでしょうか??。また昭和19年~20年にはこの場所の北側に東京陸軍幼年学校がありました。


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画像上半分にあるのが東京陸軍幼年学校で敷地は約10万坪あったそうです。この学校は開校前年に農家から土地を買い上げて建設され、昭和19年3月に現在の新宿区戸山から移転してきました。昭和20年8月2日の八王子空襲で多摩御陵前駅と共に焼失した後、終戦により廃校・解散となり昭和23年に跡地を地元へ全面返還したそうです。
古墳左側にあるトラックのようなものはこの学校の西訓練場、その下の線路沿いには器械体操場、運動具倉庫があったようです(長房ふれあい館だより33号の記事より)。

※出典:国土地理院 地図空中写真閲覧サービス

整理番号94C7-C16-251 昭和19年12月21日 陸軍撮影 ※元画像の一部を拡大してあります。


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画像⑯:同じく南3号棟前、左が船田古墳です。


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画像⑰:南4号棟(左)と南5号棟の建物のある場所に線路があったと思われます。4号棟の辺りでカーブが終わり、多摩御陵前駅までほぼ直線になります。


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画像⑱:南5号棟を出て西側(画像右側)の駐車場の敷地に線路は進みます。


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画⑲:駐車場内を通り西へと進みます。現地を訪れると、このすぐ隣(北側)に車1台分の幅ほどの砂利道がありそこが線路跡のような雰囲気ですが、地図での対比で確認するとピンクに塗ってある場所が正解のようです。


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今回の記事の対象区間に架線柱の基台らしき物が見つけただけで2基残っています。架線柱用にしては小さい気もするのですが、真相やいかに??。上から見ると丸く見えますが、よく見ると角を削ってあり元は正方形だったのがわかります。
御陵線は前述のとおり昭和20年1月21日に戦局悪化により不要不急路線と判断されて運転を休止しますが、昭和18年8月勅令の「金属類回収令」により休止後すぐに地元の方々が金のこで、金属製の架線柱を手作業で切断して供出したなんて苦労話を聞いたことがあります。鉄道会社の代理で作業を行ったのでしょうか、それにしても休止中でまた走るかもしれない鉄道線の構造物まで持って行ってしまうなんて、金属資源の不足がいかに深刻化していたかがわかります。戦時中の生活シーンがあるドラマなどで、やかんや鍋など金属の物を供出する場面がありますよね、それの鉄道版といったところでしょうか。


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画像⑳:駐車場を抜けると空き地に出ます。


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画像㉑:さらに進むと住宅街に入ります。この画像は今来た所を振り返るように北東方向を見た画像です。航空写真を見るとわかるのですが、線路は南アパート南4号棟のあたりから多摩御陵前駅までほぼ一直線です。地図に線を引くとわかるのですが、線路はこの画像の左の住宅の裏側(北西側)になると思われます。


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画像㉒:少し進んで今度は南西方向を見た画像です。道路がくねくねと曲がっていますが、線路は真っすぐなのでこのような位置ではないかと推測します。


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画像㉓:さらに進んで最後の画像になります。北東方向の撮影ですが、T字路の辺りが多摩御陵前駅の駅舎があった場所と思われます。見ての通り完全に宅地化されていて跡形もありません。鉄道があったときに敷地内で使われていた井戸が、後年そこに建った家の庭に残されていたなんて話も聞きましたが、それも40年以上前の話ですからもう無いでしょうね。

その2として北野駅(または山田駅)ー武蔵横山駅の記事を書きたいのですが、資料不足で難航しております。またいつの日か・・??。

当店のお客様の貴重なお話などを基に記事をまとめましたが、推測の域を出ない部分も多々あることを何卒ご容赦いただきたいと思います。

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