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京王電気軌道御陵線について [日記・雑感]

9月17日(土)に放送されたNHKのテレビ番組「ブラタモリ」は高尾山がテーマでした。今さら高尾山見ても・・っていう感じでノーチェックでしたが、当日なにげにテレビのチャンネルを回していたら(実際は私の家のテレビのチャンネルは物理的には回りません念のため)ちょうど放送しているところでした。
地元ネタがテレビ(しかもNHK)で放送されたとあって、2か月経った今でもお客様とこの話題で盛り上がったり(?)します。
この番組は定番の観光地ばかりでなくマニアックな「廃」な場所なども取り上げられるために、各方面(?)のマニアから定評があります。で、この回は後半に京王御陵線の廃線跡を辿るという期待を裏切らない内容でした。

戦前から八王子に住んでおられる方や鉄道に興味のある方はこの鉄道線をご存じの方が多いようで、実際に戦前生まれの当店のお客様でその方のお父様が京王電車(当時はこういう呼び方をしていたそうです)の運転士をされていて子供の頃に御陵前駅まで弁当を届けに行ったなんて話とか、廃線後に京王から土地を買ったなんて生の話が聞けたりもします。


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現在の並木町・長房町付近の御陵線開通時のイラストです。

鉄道省は現在のJR、左(西)方向「浅川駅」は現在の高尾駅、右(東)方向はまだ西八王子駅が開設されていないので八王子駅です。武蔵中央電気鉄道(路面電車)の駅の位置は資料が無いので推測です。

御陵線は京王電気軌道(現在の京王電鉄)が北野駅-御陵前駅を多摩御陵(現在の武蔵陵)への参拝客や皇族の方々の参拝を目的として昭和6年に開通させた鉄道線(支線)です。
線路は北野駅-片倉駅-山田駅と進み右にカーブして上の地図の赤色の線のように多摩御陵の近くの御陵前駅までの路線距離6.3kmの鉄道でした。

京王電気軌道は御陵線を新線として敷設するにあたり、昭和2年に国に特許を申請して同年内にこの申請がおりていましたが、これはのちに実際に開業したルート「南回り案」ではなく当時の同社の終点であった東八王子駅(現在の京王八王子駅よりさらに先で甲州街道に突き当たる位置)から延伸して御陵前駅に到達するという「北回り案」でした。
この「北回り案」のルートは東八王子駅から北に進み浅川の南側沿いにひたすら西進、現在の八王子市役所の建物の北側を走り、元本郷町で南浅川を渡り川沿いを西進し、現在の冨士森高校付近を通り御陵前駅に到達というルート案でした。
この案は暁橋など橋のある場所は高架線で建設するようなど市・市議会から要望され建設費の増加が見込まれるなどで諦め、昭和4年頃には南回り案を申請しているようです。

工期わずか10か月で昭和6年3月20日に開業しましたが、開通14年後の昭和20年1月、戦局の悪化に伴い不要不急線となり北野-多摩御陵前駅全線が休止となります。
休止後すぐに昭和16年に公布された「金属類回収令」により武器生産用の金属として線路や架線柱などを撤去し供出されました。
御陵前駅は神社の神殿のような立派な駅舎がありましたが、昭和20年8月の八王子空襲で焼失しました。
その後「廃止」ではなく「休止」扱いのまま時は流れ昭和39年11月に免許失効により正式に廃止となりましたが、駅や架線柱などの設備は休止中にほぼ撤去されていて事実上の廃線状態(再起不能?)だったそうですが、復活の話も全くなかったわけではないそうです。


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ブラタモリでも登場した長房町に現存する有名な御陵線の橋脚です。多摩地区の廃線の遺構としてはかなり有名であります。最近では高尾近辺の郷土史巡りとかの見学ポイントに組み込まれているそうです。御陵線は全線単線(交換駅を除く)ですが、この橋脚を見ると複線分の幅があるのがわかります。御陵線は全線に渡り複線分の用地を取得していたそうなので戦争が無ければ廃線にもならずに複線化が実現して今とは全然違う街並みが出来ていたかもしれません。

もし廃線にならず現在10両編成の電車が走っていたらどういう環境なのか?。計算すると武蔵横山駅の下り先端が甲州街道上なら後端は中央線と万葉けやき通りの中間あたりになるようです。地図を見ながら頭の中で3D画像を描いて妄想を膨らますのも楽しいかも(笑)。

御陵線とそれに関係する京王線の歴史年表を書いてみました。


・昭和4年5月   京王電気軌道が御陵線の用地買収に着手
・昭和5年5月   御陵線工事開始
・昭和6年3月   北野駅-御陵前駅全線開通・貴賓車500号完成
・昭和12年5月  横山駅→武蔵横山駅・御陵前駅→多摩御陵前駅にそれぞれ駅名を改称
・昭和13年?月  貴賓車500号が客用ドアを増設するなどの改造をして一般車に格下げ
・昭和19年5月  京王電気軌道が東京急行電鉄に合併され東京急行電鉄御陵線となる※
・昭和20年1月  戦局の悪化により不要不急路線とされ御陵線全線休止
・昭和20年5月  東京大空襲により元貴賓車500号他旅客車・貨車合計13両が車体焼失
・昭和20年8月  八王子空襲により多摩御陵前駅焼失
・昭和23年6月  東京急行電鉄から分離、京王帝都電鉄が発足し同社御陵線となる
・昭和39年6月  京王帝都電鉄高尾線の免許が認可される
・昭和39年11月 山田駅西側(北野起点3.76km地点)-多摩御陵前駅免許失効により廃止
・昭和42年10月 北野駅-山田駅西側(上記地点)までの廃線跡を利用し高尾線全線開通
・平成10年7月  社名を京王電鉄に改称

※当時乱立気味だった公共交通機関を調整するために昭和13年に施工された法律「陸上交通事業調整法」によるもの。他に小田急電鉄(現在の京王井の頭線である帝都電鉄含む)、京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)も昭和17年に東京急行電鉄に合併されました。

~見やすくするために細かい部分は省略しました。~


どのような環境の路線だったかと順を追いますと、北野駅は高架化したのが平成に入ってからなので当時は地上駅でした。北野駅を発車すると鉄道省横浜線があるので築堤と橋を造りこれを渡ります。
先に進むと国道16号線をガーダー橋で渡りますが、この橋桁は現在の下り線に使用され現役です。


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片倉の国道16号線上の橋桁です。プレートを見ると 昭和五年 株式會社横河橋梁製作所 製作 と見えます。調べてみたら同じ頃にこの会社で造られた橋桁がまだ全国に現役で使用されているようです。
そしてすぐに片倉駅に到着。御陵線の休止中に国鉄横浜線の片倉駅ができてしまったので現在は「京王」が駅名に付いています。
次の駅は山田駅ですが平日の乗降客はほとんど無かったようで、車掌が「降りる方がなければ通過しますよ~」みたいな感じで勝手に通過していることもあったようです(笑)。ちなみに現在の高尾線を造るときには山田駅は復活させない計画だったそうで、地元の方が京王に歎願して出来たそうです。
で、山田駅の西側500m付近で線路は右にカーブしていきますが、そこまでの路盤は現在とほぼ同じ感じの環境だったようです。
電車がこの付近に差し掛かると車掌による観光案内が行われていたそうです。でも休日だけでしょうか、平日はお客さん少なかったみたいですから。
カーブした先は現在、中央に樹木が植えられ整備されている道路があり、この道路と同じ位置を電車が走っていました。ただこの辺りは当時の航空写真画像を見ると山を削った切通しのようです。工事中に土砂崩れが起きて作業員に死傷者が出て労働環境の改善を求めて作業員がストライキを起こしたなんていう話もあります。
この切通しの区間を過ぎると今度は逆に築堤を造り、鉄道省中央線・甲州街道・南浅川を高架で渡るための高さを稼ぎます。
当時の航空写真を見ると現在の万葉けやき通りはこの付近まではまだ無く、それに近い位置に細い道路がいくつか築堤の線路の下を通っているのが見えます。戦時中に空襲があると地元の人々がこの築堤の線路の下に避難したとか。
ガーダー橋で中央線を越えた先は僅かですが築堤があり次の駅の横山駅(のちに武蔵横山駅に改称)に到着です。当時としては珍しい高架駅で現在の並木町交番の上空あたりに位置していました。上りの電車と下りの電車が行き違いできるように(御陵線は単線ですので)2面2線の交換設備があり、近くに京王電気軌道の1000KWの変電所もありました。
その先はガーダー橋(甲州街道)~築堤~ガーダー橋(南浅川)~高架線(現存する橋脚のある付近)~築堤を走り、曲線で左(西方向)に進路を変えて現在の都営長房アパート南2号棟がある高台の敷地に入り、船田古墳の南側付近で直線になり終点御陵前駅へ向かいます。


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10年以上前だと思いますが、来店された80歳代のお客様が私に描いてくれた昭和15年頃の現在の長房町付近の色鉛筆画です。
この画を見ると横山駅が新地駅と書かれていますが、そのような駅名の時代があったという記録はないので地元の方が呼びやすいように付けた通称と推測されます。
新地というのは当時のこの辺りの地名のようで、現在でもバス停(浅川新地)や公園、町会などにこの名称が使われています。八王子の甲州街道には昭和4年から武蔵中央電気鉄道という会社が路面電車を走らせていましたが、業績不振などにより昭和13年に京王電気軌道に売却し、路線縮小のうえ同社の高尾線(現在の高尾線とは無関係)となりますが、業績は回復せず昭和14年に全線廃止となります。
ちなみに御陵線が開通したときは、このあたりは八王子市ではなく東京府南多摩郡横山村だったようです。


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出典:国土地理院地図空中写真閲覧サービス(昭和22年8月8日米軍撮影 USA-M389-118 一部分拡大)

昭和22年の連合国軍占領下において米軍が撮影した現在の長房町付近の航空写真です。見やすいように多摩御陵前駅付近を拡大してあります。
この時は御陵線は休止中で八王子空襲で駅舎や食堂などが焼失した後ですが、ホームの形や駅前の車寄せ、噴水などの様子がよくわかります。
ホームと線路は櫛形の3面3線という説が有力のよう(他説あり)です。当時の京王電車は全長約14mで休日は2両編成で運転されていたのでホーム長は14m×2両分+αで約35mだったみたいです。ホームから撮影した当時の写真を見るとホームに屋根がありますが、電車2両分をカバーできる長さは無かったようです。


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散田町に現存する境界石です。


境界石(杭?標?)は土地の境界に打設する杭です。要するにこの杭からこっちは俺の土地だよみたいな。この画像の石に彫られている人間がバンザイしているようなマークは京王帝都電鉄の社紋です。御陵線は昭和20年1月に東京急行電鉄下で運転休止、京王帝都電鉄は昭和23年発足ですのでこの境界石は御陵線が走っていたときの物ではなく、京王帝都発足後に打設された物と考えられます。

運転を休止した終戦の年の昭和20年から71年を経過していますので現存する遺構はほとんどありませんが、現在でも橋脚2基、その他築堤跡・境界石・架線柱の基台らしき物などは確認できます。

歴史年表を見るとわかりますが、御陵線は工事着工からわずか10か月の超短期で完成させてしまいます。しかも山を切り開き、築堤を造り、高架駅を造り、終点には食堂・噴水付きの立派な駅舎まで造ってどれだけの作業員を投入したのでしょうか。
皇族の方々の参拝での利用を想定して開通に合わせてトイレ、洗面台付の貴賓車500号を1両新造しましたが、結局皇族には利用されることなく昭和13年に一般客向けに格下げ、さらに東京大空襲で無情にも車体焼失(戦後に車体だけ新しく造りなおしましたが)という悲しい運命の車両でした。貴賓車としての活躍の場が無かった理由としては、大正天皇の葬儀を行うために鉄道省が昭和2年に八王子駅-浅川駅(現・高尾駅)間に東浅川仮停車場という皇室専用駅を造ってあったことにあります。皇族が多摩御陵へ鉄道で行くには利便性や警備の都合上、省線の方が都合が良かったようです。
また鉄道省はライバル御陵線の開通前年の昭和5年に、立川駅-浅川駅間の電化工事を完成させて新型車両を走らせます。御陵線は平日は北野駅―御陵前駅間を単行列車による区間運転でしたが、休日には電車を2両編成にして四谷新宿から直通とか急行電車を走らせました。当時の郊外電車で2両編成は珍しいので京王の御陵線への力の入れようがわかります。が、残念ながら戦時下の不要不急線として昭和20年1月に運転休止となり復活することはありませんでした。

逸話として休止期間中に南浅川か甲州街道の(どちらかわからない)ガーダー橋を鉄泥棒が白昼堂々現地で解体して持ち去ったという話があります。当時は朝鮮戦争(昭和25~28年)で鉄価格が高騰していたそうなのですが、あまりにも堂々と作業をしていたので泥棒とは誰も思わなかったそうです。
昭和22年の航空写真ではガーダー橋がありますが、昭和30年には両方とも無くなっていますのでこの間にどちらかが盗難にあったようです。八王子郷土資料館所蔵の資料には盗難にあったのは甲州街道と書いてありますが、南浅川説もよく聞きます。

私は八王子出身ではありませんが、10年くらい前に興味があり廃線跡の一部を歩いたりした経験があるのでこの機会にまとめてみました。いろいろな資料を読んだり、当店のお客様に聞き取り調査(?)したりで情報を集めましたが、まあ戦前の古い話でありますので特定の部分において調べてもそれぞれ話が違ったりということが多々ありました。まあでも細かいこと抜きに、今は無き遠い昔の鉄路を思い浮かべていろいろ想像してみるのも楽しいかとおもいます。

2022年2月14日追加、参考記事 https://nisihachi248.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

おしまい

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